「外人の名前よか、日本人の名前のほうが覚えやすいだろう」
そういう安易な考えで、かつて大学入試にあたり日本史を専攻しました。
しかし結局 FUJIWARA一門の辺りで人の多さにキレて、一番好きだった時代は縄文・弥生から大仏建立ぐらいまでだった気がする。
出土したものからあれこれ勝手に推測するしかない、モンヤリとした時代。
そのアバウトさをいつまでも持て余しては論じ続ける感覚が好きです。
縄文式土器。いいですよねえ。こういう植木鉢がほしい。
最初に「これはアートだ!!」と定義づけたのが、たしか岡本太郎。
火を表現したものという説があり、尋常ではないユニークさ。今の陶芸家たちに言わせると「どうやってこの形をうまく焼成したのかわからない」らしいです。
いっぽう、「うつわとして綺麗だなぁ」と思うのが弥生式土器。
技術があがったということもあり、薄手でしっかりと硬さがあって、あたたかみのあるオレンジの色合いがフラットに乗ってきている感じ。
縄文人を青年男子としてイメージすると、
隠し事もしないけど無遠慮。野山を駆け回っている大きいガキ。
濃い顔。当然ながらガツガツに日焼け。たくましい犬歯。
ぽっと出のチェーン系ラーメン屋なんかに行くと、親父が用意しといたスープの中にマニュアル通りに茹でた麺がただ落としてあって、バイトが大まかにどっぷり刻んだ小ネギが乗ったひと椀が出てきたりして
「粘土細工みてえなラーメンだな」
なんて思うこともあるんですけど、食べてみたらけっこううまい。
あんな愛すべき無骨さにも似ている。
いっぽう弥生(もう苗字。青年男子。)はもう、唐突にサラッとしてくる。
荒ぶるボサボサヘアーだった縄文(苗字。)が、パンテーンを使うと弥生。
穏やかだけどマイペースで、ものごとにあまり執着しない。でも食べることは好き。
日本という土地は狭く、気候もたいして変わらないはずなのに、
一部の学生が「夏休み前」「夏休み明け」にかましてくるが如くの、このドラスティックな変化は一体どういう理由からくるものなのか。
行けるもんなら是非その過渡期へ行って確かめてみたいところなんだけども、いまここから断言できることとして、
・・・間違いなく、ちょっと先いってる女子との出会いがあるね。
静かでありながらも軸をもつ「弥生ちゃん」を、縄文(もう、そういう苗字の男子ね。)が気にしだすのも、時間の問題だったであろう。
がさつながらも声をかけ、そのへんを二人でぶらぶら歩くぐらいには漕ぎ着ける。
縄文 「なぁなぁハッフッ、おまえ最近なに喰うのが好きよ?(俺は~・・・はぁーマンモスくいてー)」
弥生ちゃん 「・・・米、かナ」
縄文 「!!!!!!!!!!!!!!!!」
弥生 「変かな?ゴメンね・・・わかんないよね普通」
縄文 「いやいやいや!オレ、米、くう!!くいてーっす!!!!!!」
いつものロゴ(文様)入りアウター。なんとなくそのブランドをまとう自分に安心していた縄文。
友達ともだいたいおそろになるから、そういう格好で連れ歩くことでつながり感を持ってた縄文。
だが弥生ちゃんと米食ったりして一緒に出歩くようになると、
今までの「見た目を盛る」安易さから一皮むけた部分も出てくるし、彼女の好みに流される部分も出てくる。
ただ周りの連中とヤンチャしていればよかった虚栄的装飾から、ひとつ先の「飾らない上質」へ。
彼女と同じセレクトショップに出かけるようになって、しそカジ(質素カジュアル)を好きなように組み合わせてコーディネイトしていく。
土器に粘土のナワをくっつけることが、途端にガキっぽく見えてくる。だからもうやらない。
弥生ちゃん 「このすべすべした感じ、いいよね」
「・・・うん」
まだその細くて白い指先にしか触れたことはないけれど、彼女の質感もこの新しい土器と同じだった。
と縄文は想う。
彼女のもたらした新しい世界に自分も乗ってみたいけど、乗り方が最初はわからなくて悶々とする。
「この角度で、いいのか?イケてるのか?どうなんだ??」
誰も見ていないところで散々悩みぬいて調整したやつが、翌朝同級生に見つかって
「オメ、なんだよ、そのシャッベェ反りはよ」
とか笑いのネタにされてしまい、赤面する。
そんなねずみ返し。
力仕事だから、狩猟から農耕へと移った弥生時代の象徴である田畑をつくったのは女でなくて男のはずなんだけど、 秋になって黄金色に染まった田んぼを見つめながら、傍らに立つ縄文の手をそっと繋いで弥生ちゃんは言う。
「ずっと一緒に "同じ景色" をみていこうよ」
・・・ここにて、米を主食とする文化が創設された。
髪を彼女のようにサラサラに変えた縄文は、穏やかに頷く。いつだって、一歩先へ進むのはオレじゃなくて彼女のほうからだ。 けどそれでいい。
そういうのを遠目でみてた奴がキュンとする。真似する、流行る。
「定着型」という新しい愛のかたちが広まった結果、それが弥生式。
縄文と弥生のそれぞれを掘り下げること、あるいはその変遷については国内のみならず歴史学者たちが研究してきているはずですが、
上記の相当間違いない感じの仮説が、いまだ発表の陽の目をみないのは一体全体なぜなんだろうなぁ。
世界を回すのは男だけど、彼らを産み、そして回していくのはわたしたち女なのよ。
※今週のお題「行ってみたい時代」